ブログなるものを書き始めて1年が経過しようとしています。当初は次期開成町町長選挙への出馬を見据え、そして去る8月に実際に立候補を表明した立場から、勤務先や大学院で学んだこと、国・地方自治体や社会が抱える課題に対する自身の考え、取り組んでみたい政策等を中心に記載させていただいております。

さて、その内容について、話が堅過ぎる等のご意見も多数いただく中、今更ながらではありますが、人間・山神ゆたかをより詳しく知っていただくために、何度かに分けて自己紹介をさせていただくこととしました。自らを丸裸にしていく作業は多少勇気がいりますが、嘘偽りなく書かせていただきます。

初回は仕事編です。山神ゆたかの人となりをできるだけ知っていただけれるよう努めます。長文乱文となりますこと、予めお詫びいたします。

○就職
私が大学に在籍した昭和60年代はバブル経済全盛期(結果的に崩壊直前)!平均株価は就職した1989年に、多くの企業の採用人数はその翌年の1990年ピークを打った、そんな時代でした。

雇用市場は空前の売り手市場。戦後最少の出生者数であった丙午生まれという幸運?も重なり、さらに企業戦士として体育会学生は一定の人気を得ていたこともあり、志望先に入ることができました。当時の私が”働きたい!”と感じていたのは”少ない人数で大きなことをやっている会社”。何となくではありますが、超大企業は従業員ひとりひとりの存在が小さく、責任も軽いような先入観を勝手に抱いていた記憶があります。

とにかくどこであっても一生懸命に働く意気込みだけは強かったですが、これといった明確な夢のようなものはなく、働く業界への拘りもあまりありませんでした。当初、日本開発銀行という政府系銀行に興味を抱きましたが、とある大先輩から『歴史的使命を終えている』と言われ、あっさり諦めました。結果的に民間企業ではありますが、日本の戦後復興や企業の設備投資などのための長期資金の安定供給を主要業務とする点では似た銀行、日本長期信用銀行(以下”長銀”)に入社しました。

○長銀時代
同期120名のうち東大が40名、英語の試験でブービー賞、とんでもないところに来てしまったかも?と不安になったことを覚えています。(その1/40が”今でしょ!林修先生でした)。中には通産省を蹴ってきた者もおり、社会人野球のお誘いを丁重にお断りして入社した私とはあまりに別世界の人間の集団にたじろぎました。が、不安が人を成長させる!がんばりました!

配属は資金為替部資金事務室。外国為替や資金貸借などの市場取引の後方事務、ひたすら机に向かって”チェック”の日々。
半年間後、為替ディーラーに。毎朝の仕事は? 電話録音のテープの入れ替えとコーヒーメーカーのセッティング。下積みは慣れたもの、全然平気でした。通貨の売買を行う所謂ばくち打ちでしたが、世界経済や株・金利市場について必死で勉強、当時最先端のデリバティブ取引にも携わり、充実した日々でした。
※入社1年目に父が他界、東京の寮から開成町に戻りました。

その後、融資業務がしたいとの希望を出し、名古屋支店へ。市内や三重県全域を担当。1000億円規模の融資残高があった東海銀行グループ企業を担当する一方、新規開拓の飛び込み営業も展開。地銀と協調してホテル建設への融資も実行。企業の財務諸表が読めるようになり、漸く”銀行員”になれた気分でした。

○転職。外資系へ。
バブル崩壊により、都銀や証券会社が相次ぎ破たん。長銀も株価が50円を割り込む事態に。銀行救済のための公的資金投入の是非を巡る議論が活発化し、バッシングも強まる中、やはり税金のお世話になるのは避けたいとの思いから転職を決意。1998年・平成10年9月、10年弱の長銀生活に終止符を打ち、清水の舞台から飛び降りました。

退職時の同僚への挨拶『長銀も私も今は我慢の時。次に飛躍するために力を蓄える必要がある。より深く屈めば、より高くジャンプできる』。かなり格好つけましたが、長島一茂さんが唯一勝てなかった男・猿田主将の言葉をそのままお借りしたものです、とても胸に響く言葉だったので。今でも壁にぶち当たった時はこの言葉を反芻します。

退職の翌月、長銀は破たんし一旦国有化されました。破綻の原因はもちろんひとつではありませんが、不動産融資への傾斜という結果的に誤った経営判断と、トップの意に沿わない者は排除され、その暴走を許した統治機能の欠如が主因とされます。この失敗の教訓は官民も国内外も問わず、すべてに活かし得るものです。

(仕事編2へ続きます)