山神ゆたか自己紹介シリーズ”趣味編3-3”、”野球”の続編です。

◎(スポーツ4) 野球 高校時代
〇原貢氏
文命中学校にて春夏連続で県大会準優勝したことで、有難いことに多くの高校から野球推薦のお話をいただきました。そんな中、名門・東海大相模高校から所謂“セレクション”の声がかかり、当時の原貢監督(故人。巨人軍 原辰徳監督の父上)にプレーを見ていただけることになりました。結果としては、原監督から『君は成績が良いねぇ。あの辺りだと小田原高校か』とやんわりと三行半を突き付けられ、お勧め通り小田原高校に進学しました。

〇監督辞任要求
小田原高校では、苦い思い出と良い思い出のいずれもありました。1年の春からレギュラーとして試合に出していただきましたが、ポジションは初めてやる外野。春の県大会ではポトリのエラー、夏の県大会もノーヒットで初戦敗退といいところはまったくなく、監督の期待を見事に裏切りました。

そんな1年生に対する贔屓が引き金となり、夏を終えた3年生が、時の監督に辞任を求める事態となってしまったのです。私のせいで試合にレギュラーから外れてしまった3年生のことを思うと、非常に申し訳ないとの気持ちはもちろんありましたが、頼んで試合に出してもらった訳でもないと自己弁護する勝手な思いも混じり、非常に苦い思い出となりました。

2年生の時も夏は結局1回戦負け、5年連続の初戦敗退となりました。OBの大学生が新監督に就任、そして後に立教大学で野球を続け、私が大学でも野球を続ける勇気を与えてくださった尊敬する先輩・瀬戸主将の下、ユニフォームの色から練習方法まで多くの改革がなされましたが、残念ながら結果には結びつきませんでした。

〇休部
新チームでは主将を任され、最後の1年間がスタートしましたが、のっけから躓きました。また新しくOBの大学生が監督に就きましたが、この方とどうしてもそりが合わず、1ケ月程度だったと記憶してますが、休部しました。(当初は、退部のつもりでしたが、その後、伊与田副将はじめ同級生が真面目に続けている姿を見て、恥ずかしながら復帰することにしました。)

休部のきっかけは夏の合宿で、監督が連れてきた某OBに筋トレを強要されたことでした。今でも忘れることのない質問『野球はど素人のプロレスラーと少年野球チームが試合をしたらどっちが勝つ?』との問いを引き合いに、“大事なのはパワーだ!!!”と押し付けられたことが面白くなく、しかも“個人攻撃”を受けた印象が非常に強く、腹筋を繰り返しながら何だか悔しくて泣きました。

“少年野球が勝つに決まってるだろ”との思いを譲らず、翌日からグランドに行く気がまったく湧かなくなりました。監督からすれば、まったく扱い難い主将であったに相違ありません。私も譲れないところは譲らない性分ではありますが、今にして思えば“若かった“です。
〇6年ぶりの勝利
3年の夏はくじ運にも恵まれ、3回勝ちベスト32に進出、小田原高校としては上出来の結果でした。初戦の津久井浜高校戦、3点差で迎えた最終回、1点差に詰め寄られなお2アウト満塁、バッターは4番の大ピンチ。当時、捕手と投手の“二刀流”でフル稼働していた私が途中からマウンドに上がり、試合を盛り上げてしまいました。

とは言うものの、小学校時代の監督に『勝利のために最も重要なことは“冷静”であること』との教えを常に頭に入れていた私は、マウンド上で不謹慎にも、いつか『人生で一番緊張した時はいつですか?』との質問を受けたら、“この時”のことを話そうと考えられるぐらい“冷静”でした。

接戦をものにすると得てして勝ち進めるもの!中学校の県大会でも試合した川崎等々力球場との相性の良さもあり?、2・3回戦突破!4回戦、これに勝てば、あの三行半の東海大相模と対戦という因縁の巡り合わせでしたが、そんなドラマのような話は実現せず、最後の夏が終わりました。4試合で12打数8安打、本番に強いかも!なんて自画自賛した18歳の夏でした。