山神裕(やまがみゆたか)のことを知っていただくために投稿してきました自己紹介シリーズの最終、趣味編3-4”野球 大学時代”です。

◎(スポーツ4) 野球 大学時代
県立小田原高校を卒業後、慶應義塾大学商学部に進学、4年間体育会硬式野球部に所属しました。野球に関して”自己”を”紹介”できるネタはたくさんありますが、当時を時系列で簡単に振り返った後、私自身が得たものを3つだけお伝えします。

〇大学で何をやるか?英語(ESS)か野球か迷った末、神宮の☆を目指す道を選択しました。新入生は例年通り40名ほどでしたが、多様性に驚きました。北は北海道から南は熊本まで、現役から3浪まで、内部進学から医学部まで、都大会ノーヒットノーラン負けから甲子園球児まで・・・。

〇最初の1年間は下積み。朝2時間のグランド整備後、午前練習。午後はレギュラー組の練習の手伝い。夕方練習後、晩飯食べた後夜10時からまた練習。その後飲みに誘われれば拒否権なし。

着替えは屋根こそあったが屋外。風呂に入れるのは最後なので、湯船にお湯がない時も。寮は4畳半にふたり、先輩とペア。就寝時の私の下半身は押入れの中、眼前には洗濯物。ごはんが非常に美味しかったことが救いでした!

週に1日練習休み。ただ、門限10時。入部直後に夜の練習に遅刻し、量の玄関先で“空気椅子”の罰則1時間。『やる気がないならやめちまぇ』と怒鳴られたことが昨日のことのよう。やめろ!と言われると逆にやめたくなくなる、人間って不思議です。

チームは13年ぶりのリーグ戦優勝!57年ぶりの全勝優勝でストッキングの白線が1本から2本に。優勝パレード(神宮➜三田)も初めて経験しましたが、お役目は最後尾でのゴミ拾い。立派な仕事です、スポットライトを浴びる人の陰には多くの裏方さんが必要なのです。それにしても、多くの警察官の協力を得ながら、六本木をはじめ大都会の真ん中をパレードできるこの大学、すごいなぁと感じました。

〇2年目も下積み。ただ、30名の1軍寮に昇格でき、3人で10畳程度に、着替えが屋内に!笑。同期生が夜の掃除を忘れ、私も外出禁止に。連帯責任は体育会流です。

リーグ戦後に開催される1・2年生のみの新人戦で主将に!本職は小学校の時から捕手でしたが、同期だけでも一時10人もいた激戦区、とにかく試合に出るために投手や外野にも挑戦、新人戦は外野手で出してもらいました。神宮球場で『小田原高校』とアナウンスされた時のことは忘れられません。

〇3年生で飛躍。初めて25名のベンチ入り、リーグ戦にも出場。早慶戦では振り逃げした早稲田 江上主将(池田高校)の背中にボールをあててしまい、赤っ恥をかいた苦い思い出。ただ、立教戦でホームラン!法政 秋村投手(広島カープ)からヒット!と私なりには大変満足のいく1年間でした。

打者:長島一茂さん
投手:鈴木哲さん(西武→広島)、一塁手: 大森剛(巨人)、ランナー: 黒須さん(ヤクルト ドラフト3位も銀行員に)、そして捕手 山神(開成町!)

チームは春のリーグ戦優勝、27年ぶりの大学日本一に!私が出場した秋は5位でした、お役にたてずすみません。

〇4年生は忍耐の1年。3年の秋のリーグ戦終了後、同期22名の話し合いで“副将”に選出されましたが、監督に却下されました。翌春の高知キャンプ・大阪遠征では、まだ入学前の高校3年生にレギュラーの座を奪われ、ベンチを温める立場に。却下との関係は不明ですが、これが実力の世界。彼はその後、名門・日本石油を経て近鉄へ入団、監督の目に狂いはありませんでした。
悔しい思いは当然ありましたが、仮に実力が同じもしくは上級生が上でも大差なければ、若い方を使う・育てるのは常識、ということを身をもって体験しました。

お世話になった前田監督(故人)の前田イズムについて、私が得たものは次回書かせていただきます。

(つづく)