本日11月23日は国民の祝日である勤労感謝の日、あまり知られていないかも知れませんが外食の日やお赤飯の日(新嘗祭の日)でもあります。そして、個人的なことでありますが、この日は私の父・輝(あきら。故人)の誕生日でもあります。平成2年、56歳で他界、生きておれば今日85歳になりました。

そういう時代であったとも思いますが、生前、父の誕生日を祝った記憶もなく、その後もこの日を格別意識したことはありませんでした。ただ今年は自身が町長選への立候補を決意、そして表明し、父と同じ境遇になったこともあり、父のことを思い出すことが増え、例年とは異なるあらたまった気持ちで父の誕生日を迎えました。

私は大学時代を横浜市の野球部の寮で過ごし、就職後は中野区の会社の寮に入り、その社会人1年目に父は他界したため、父とともに生活したのは高校生までと限られたものでした。父に関して知らないことも少なくなく、お世話になったご近所の皆さんやお知り合いから教えていただくことの方が多いです。

父も早くに父(私の祖父)を亡くし、6人兄妹で唯一の男であったため、小田原高校を卒業後、家業である農業を継ぎ、その後町による工場誘致に土地を提供した山陽スコット(現クレシア)に入社しました。小田原高校が東大合格者数日本一を日比谷高校と争っていた当時(東大を狙えたと言っているわけではまったくありませんよ)、大学進学を断念せざるを得なかったことは無念であり、私が大学に行けたことを自分のことのように喜んでくれていたようです。

父は仕事や農業以外でも消防団や子ども会会長、PTA会長、体協役員(陸上)、菩提寺の広報担当などに携わり、超地元密着の人生でした。有難いご支援をいただき、49歳で町議、53歳で町長として働かせていただきましたが、心筋梗塞を患い、残念ながら町長一期目の道半ばにして太く短い生涯を終えました。

息子から見た父は、何事にもバカがつくほど真面目に取り組む人との印象でした。自治会の夏祭りの盆踊りも常に本気モード、町民体育祭のスプーンリレーの練習に夢中になり過ぎ、転んで指を骨折、卒業式・入学式・結婚式などあらゆるスピーチの練習に余念なく、寝言でもスピーチしてました。

短気な完璧主義者として職場の皆様にご迷惑をおかけしたものと思いますが、会社や地域・町を思う気持ちは間違いなく強かったと思います、お許しいただければ幸いです。

今回の私の挑戦について父が生きていたら何と言うか? 実は父は私の大学進学や就職に際し口を挟むことはいっさいなく、私に任せてくれました。恐らくは今回も同様だったろうと思います。

私からすれば、短期間ではありましたが父の経験談を聞きたかったとの思いはあります。ただ、仮に父が今日も存命であれば、私が今回のような決意にいたることはなかったかもしれません。何故なら、定年まで生まれ故郷に戻ることなく東京などで働き続けていた可能性があるからです。父を亡くし、早々に代替わりしたことによって、地域で多くことに携わり、父ほどではないものの、地元密着の人生となった経緯があっての決断であることは確かです。これも人生の必然、巡り合わせというものだと思います。

山神輝の息子として、残りの人生を悔いなく歩むことを天国に誓った平成最後の11月23日でした。