山神ゆたか自己紹介シリーズ”趣味編3-1”です。

○(スポーツ4) 野球 小学校時代
野球は小学校で始め大学まで続けました。”生活の一部に常に野球があった”、”野球とともに成長した”と言える人生の前半戦でした。

私が小学生だった1970年代は、小学生の各種スポーツクラブが創設され、盛んになり始めた頃だと思います。開成町では、まず野球が2チーム後に3チームでき、私が小学校を卒業した後、サッカーやバスケットボール、バレーボールなどのチームが相次いで誕生しました。

各チームが現在も活動を継続されていることは、それぞれの指導者はじめ関係各位のご尽力の賜物と敬意を表すとともに、スポーツを通じた地域コミュニティの形成や活気の創出に多大な貢献をされていると高く評価されるべきものだと思います。今後も各チームが存続し、活発な活動を継続できるよう、また世の中のニーズの多様化にも対応し、多様なスポーツ種目の団体活動を支援・応援していくのが町の役目のひとつだと思います。そして、これはスポーツに限った話ではなく、文化活動に関してもまったく同様であることは言うまでもありません。

なぜなら、少年少女の多様なスポーツ並びに文化活動が活発であり続け、町もそれらをサポートするスタンスを明確に打ち出すことは、”町の魅力”を強く創出することにつながるからです。(少子化が進むと、特にチーム種目の場合、やりたいことが地域内でできないといった事態は既に全国でおきています)

話が自己紹介から逸れてしまいました。さて、私は小5の時に開成少年野球クラブに2期生として入部しました。入部希望者が獣医である監督宅に集合した際、馬の鳴き声が轟く中で(笑)、監督の隣にいた私は『キャプテンでキャッチャー!』と言い渡されました。野球人生が始まった瞬間でした。

当時は土曜日に授業があり、朝練の文化も定着しておらず、活動は実質日曜のみ。正式な大会も上郡で年に2つ?、県大会はひとつだけ、そんな時代でした。上郡では優勝したものの、唯一の県大会では川崎市の観音子ども会に善戦空しく1回戦で敗退。横浜は本牧公園の片隅での反省会、悔しさのあまり監督が涙したことには驚いてしまいましたが、小学生ながらに”期待されていたこと”を初めて認識し、申し訳ない気分にもなりました。

それでも、同日その足で行った”宇宙博”での記念写真ではみんな満面の笑み!”勝負”に関して、大人と子どもの意識のギャップは相当大きかったと感じてます。お世話になった監督やコーチへの恩返しは中学にいってから果たせることになります、詳細は次回お話します。

思い出としては、監督宅に何度も泊まったり、レストラン”三平”のラーメンが何よりの楽しみであったりと、野球以外のことの方が多いです。一生の付き合いとなる仲間との出会いをいただけたことに深く感謝してます。

忘れられない試合は、後に慶応大学で同じ釜の飯を食うことになる志村投手(桐蔭学園で甲子園出場。53イニンク゛無失点の六大学記録)率いる平塚市桃浜ワイルドタイガースとの2試合です。当方のエース小野投手(相洋高校で夏ベスト4)も譲らず、いずれも引き分けでしたが、牽制球が矢鱈上手かったことが印象的でした。