自己紹介シリーズの2回目、仕事編2です。初回は社会人生活をスタートし、約10年間お世話になった長銀時代について書かせていただきました。今回は最初の転職以降についてお話しいたします。
○外資系、実は全く知らない世界
32歳の秋、“外資系企業”の世界に飛び込みました。米国の銀行(東京支店)に先に転職していた長銀の先輩から『外国為替取引の法人営業を探している、興味あるか?』と誘われ、飛びつきました。外国人数名を含む8名と面接し、“合格”しました。後日談として『駄目ならクビでいい』と言い切った潔さ?が受けたと後の上司に言われました。
外資系は日本の企業と多くの点で異なることは知っている“つもり”でしたが、それは本当に“つもり”に過ぎませんでした。細かなことは守秘義務があるため口外できませんが、“成果主義”というものの実態を知り、“こんな世界があるんだぁ”、“知っているようで実は知らない世界だった”、“それまでの10年間の社会人生活でなぜ自分は社外や他業界の情報を入手しようとしなかったのだろう?!”と驚きそして反省しました。
客観的に見て、どうやら私はこの成果主義という環境が性に合い、必死で働く原動力になったと言えそうです。結局、その後17年間外資系で勤務することとなります。
会社が傾いたことによる転職であり、傾いていなかったらそのまま勤務し続けていた可能性が非常に高く(体育会系だからというわけではないですが、雇っていただいたことへの感謝&忠誠心は相当強かったです)、大変不謹慎な言い方ですが、傾いたお陰で別の世界を知れたのは事実です。
○いきなり“買収”される
転職した翌月、ドイツの最大手金融機関であるドイツ銀行が、私が入ったばかりのその米国の銀行を買収すると発表しました。いきなり買収・合併?!外資系企業では特段驚くほどのことでもなかったのでしょうが、私にとっては非常に深刻かつ重大なことでした。何故なら買収される側の従業員が全員雇用され続けるわけがなく、転職するやいなや解雇の可能性に直面しました。
結果的に首は繋がりましたが、給料が相対的に安いポストであったことが幸いした可能性があります。同じ部の同僚はほとんどが解雇か自ら辞めていきました。ただ、あくまで一般論とお断りした上でご説明しますと、合併や買収という会社の都合による解雇はむしろHAPPYな人もいます。不当解雇等の裁判沙汰を避けるためなどと言われますが(本当のところは分かりません)、退職時の手当てが比較的厚いとされるためです。
会社もオフィスもチームメンバーも変わり、気合いを入れ直す必要を感じた私は開成町から東京に引っ越す決意をしました。それまでは7時半に出社しておりましたが、6時台には机に就くくらいでないと生き残れないと肌で感じたからでした。
場所は祖師谷大蔵。電車(小田急)と車(東名)いずれでも実家にアクセスの良いことに加え、長銀名古屋支店で席を並べた先輩がお住まいで、且つ息子同士が同じ年で、同じ幼稚園に入園できることもそこに決めた理由でした。
かくして2度目のお上りさん生活となりましたが、働き方改革などという言葉もない時代、必死のパッチで働きまくり、何とか軌道に乗りました。生き馬の目を抜く外資系でも何とかやっていけそうな自信もつき、息子の小学校入学と同時に2人増えた家族ともども開成町に戻りました。
※仕事編3に続きます。