山神裕(やまがみゆたか)のことを知っていただくために投稿してきました自己紹介シリーズの最終回、”野球 大学時代”の続きになります。

〇前田イズム
在籍中の4年間は前田祐吉監督(故人。当時54~58歳)に指導いただきました。私にとっては、1軍に引き上げていただいた恩人でもあり、副将を却下されるなど人生の厳しさを教えていただいた大監督です。部員が100名を超え、毎年その1/4が入れ替わる世界で、強豪校からの期待の新人でもない普通の選手がのし上がっていくには、まず首脳陣に名前を覚えてもらうことから始まります。1・2年生の練習はほぼまったく見ない監督に名前を覚えていただいたきっかけは??? 麻雀でした。

オフの日や雨などで練習が早めに終わった時など、監督は3・4年生とよく麻雀に興じてました。下級生は本来は麻雀禁止ですが、面子足らずでお声がかかった時に勝ってしまったのです。『おぬしやるなぁ』とか言われ、“山神”という名前を覚えていただき、以降、卓を囲むたびにリベンジのために『山神を呼べ』とご指名いただくことになりました。

前田監督は私の知る限り一般的な監督像とは異なる方でした。“前田イズム“とは?
まず、”学生たる者、勉強しろ、学校に行け!“との主義でした。学校ばかり行ってグランドにいないと、自身をアピールできないというジレンマに陥る訳ですが、必修以外の一般科目でも結構授業に出れました。海外遠征に行く前には渡航先の歴史を学べ!と「概説ブラジル史(有斐閣選書)」などを読まされました。独学とのことでしたが、英語に堪能、海外の大学との練習試合で英語でコミュニケーションしていた姿は格好良かったです!こんなおじさんになりたいとの憧れも抱きました。

ふたつめは”アメリカ好き“でした。野球ではなくBaseballを愛してました。その違いを説明するには時間が足りませんが、”犠牲”バンドは嫌いでした。捕手のリードに関しては、打者の裏をかいた意外な配給は嫌い、真っすぐが速い投手が変化球で小細工するのも大嫌いでした。そして、”根性”野球や日本的な上下関係に批判的でした。実際は上級生が下級生を説教したり、罰走を課すことは頻繁にありましたが、監督に見つからぬ様に”実施“されてましたが 笑。

○体育会在籍で得たもの
体育会在籍で得たものを3つ挙げるとすると、①達成感、②理不尽、③友です。
①『やめちまぇ』に『やめてやるぅ~』と切れずによかったです。隣の芝生は非常に青かったですが、4年間ひとつのことを続けることができて自信になりました。
②古い規則やしきたり、厳しい上下関係などに理解できないこと、所謂“理不尽なこと”がたくさんありました。それらは本来は時代の変化に応じて変わっていくべきであることは間違いないですが、実社会でこの経験が活きたことも事実です。世の中思い通りにならないことばかりなのは、私が今更申し上げるまでもないですね。
③大学で野球を続ける物好きはエースで4番のような”俺が俺が”タイプが多く、当時はプライドのぶつかり合いに喧嘩ばかりしていましたが、大人になればかけがえのない友。やはり苦楽をともにした仲間との絆は一生ものですね。

打者:長島一茂さん(ヤクルト→巨人)
捕手:山神裕(開成町)
初球のストレートを左中間スタンドへ。痛恨・・・。

大学生の子を持つ親になって、当時の自分の親の金銭的負担や気苦労がようやく分かりました。寮費が格安で、門限があり夜遊びもあまりできなかったことは親孝行だったかもしれませんが、野球の道具代などで帳消し、相当な負担をかけました。有意義な4年間を過ごせたのも親のお陰、天国の父にありがとう!

以上で足かけ2年かかってしまいましたが、自己紹介シリーズを終わりとさせていただきます。